正座は武士にあるまじき行為ではないのか

「剣道は武士道、武士の精神を現代に伝えるものである」旨のことを、事あるごとにご老人の先生方から教えられる。人の前を横切ると叩き切られるので後ろを通る、すぐに刀が持てるように右足から立ち上がる、竹刀(刀)は武士の魂であるから跨いではいけない、等々。それらはおおむね趣深い、尊重すべきことのように思う。

しかしながら1つだけ、「座るときは必ず正座」というのは、いささかいかがなものかと思う。「武士はいかなる時も戦場にいるつもりでいなければならない」のならば、正座は戦闘態勢には大変不向きである。

まず、痺れる。特に話の長いご老人先生のありがたいお話を清聴した後など、足の感覚は消え果てて、戦はおろか立ち上がることすら暫くはできぬ。正座をしている時に敵が襲い掛かってきたら一体どうするのかという気がしてならない。

「なぜ剣道では戦に不向きな正座をさせるのか」の疑問を調べるために、私はアマゾンの奥地ではなくGoogleを探索した。

・・・・・・・

日本文化研究のお偉い先生方の書物*1*2を拝見する限り、正座が正式な礼儀として定着したのは明治時代のようである。(むむむ、またも明治か)

テレビや映画の時代劇を見ても、戦国武将は主君に謁見する場合でも胡坐であるし、中国の皇帝に謁見する武人は立膝(跪座)である。まさに、いつ何時不埒者に襲い掛かられてもすぐさま反応でき、それでいて失礼とならない姿勢である。

それが、いつの間にやら(明治である)立ち上がるのに苦労し、立ち上がっても足がしびれて動けない正座へと変わってしまった。大変に嘆かわしいことである。

すぐには立ち上がれない正座をするということは、全くもって戦う気がないことの表明である。これを武士道の堕落と言わずして何と言えようか。土方歳三ならば士道不覚悟で切腹を申し付けたことであろう。ああ、なんとも嘆かわしい。

・・・・・・・

私の今までの人生の感覚では「正座は罰としてさせられるもの」であった。

もう40歳も過ぎて、まさかこの先好き好んで正座などしないであろうと思っていたのだが、残念、何を思ったか一念発起で剣道に入門してしまったからには正座は避けては通れない。なんとか「正座は武士にあるまじき行為」という風潮になってくれないかと心密かに願うばかりである。マスクだって悪から善へコロっと変わった民族性なんだから、正座もちょっとしたことで悪になったりしないかなあ・・・