理科のテストで「。」がなければ減点?——SNSへの投稿が投げかける教育現場への一石

先日、X(旧Twitter)である投稿が大きな波紋を広げていました。 (ここに該当のポストを引用:https://x.com/laem13_8/status/2022522900486697349?s=20

内容は、小学生のお子さんを持つ親御さんがアップした理科のテストの回答用紙です。驚くべきことに、理科の知識としては正解しているにもかかわらず「文末に句点(。)がない」という理由で減点されていたのです。

この投稿は瞬く間に拡散され、いわゆる「炎上」状態となりました。私自身もこの採点内容には強い疑問を抱きましたが、それ以上に興味深く見守っていたのは、この騒動に対して「教師側」を名乗るアカウントが次々と現れ、議論が泥沼化していった点です。

「直接言え」という教師側の主張

教師側のアカウントの多くは、次のような主張を展開していました。 「不満があるならSNSに投稿するのではなく、直接学校や教師に言ってほしい。SNSへの投稿は教師個人を叩く行為であり、フェアではない」と。

いわゆる「個人攻撃」や「ネットリンチ」への警戒感からくる意見でしょう。しかし、私はこの教師側の主張には強い懐疑心を抱かざるを得ません。むしろ、今回のように親がSNSに投じた一石には、大きな一理があると感じています。

なぜ「直接指摘」では不十分なのか

仮に、保護者が学校へ直接出向き、担任や学年主任、あるいは校長に抗議したとしましょう。運が良ければその場では謝罪され、採点が訂正されるかもしれません。

しかし、それでは「その学校」あるいは「その教師一人」の問題として処理されるだけで終わってしまいます。密室の中での解決は、根本的なルールの改善には繋がりません。

今回のように理科のテストにおいて理科の理解度を測る以外の要素(国語の作法など)を混ぜて評価を下すのは明らかな教育的間違いですが、本来の目的を見失ったこうした指導が一教師や一学校の裁量でできてしまって良いはずがありません。

SNSへの投稿が「公共の利益」を生む

個人が特定されない形でSNSに投稿し、広く世に問うこと。それによって「こうした採点は不適切である」という機運が社会全体に醸成されれば、それは個別のクレームを超えた力になります。

議論が大きくなれば、文部科学省や各教育委員会も無視できなくなり、公式なガイドラインや対策が示されるきっかけにもなり得ます。一人の教師に頭を下げさせるよりも、よっぽど建設的に世の中を改善する一歩になります。

教師の役割とは何か

これは採点した人じゃなくて、Xに絡んできた教師たちに言いたいことなんですが、

昨今、猫も杓子も「個人攻撃は良くない」「SNSに投稿するのはマナー違反だ」と脳死状態で叫ぶ風潮があります。しかし、教育に携わる者であれば、 「将来の子供たちが句点の間違いで理科を嫌いになることをまず防ごう」と考えたほうが良いのではないでしょうか。

モンペだの教師が割に合わないなど感情的な反発に終始せず、この騒動を日本の教育をアップデートする(教員待遇も含めて)契機として捉え直す姿勢を期待したいものです。期待しすぎてごめんだけど。

いや、大変なのはわかってますよ。

 

 

「円安=悪」という思考停止。私たちはいつから、傲慢な「消費するだけの者」に成り下がったのか?

最近、ニュースやSNSを開けば「円安のせいで生活が苦しい」「物価高が止まらない」という悲鳴ばかりが聞こえてきます。円安は、まるで日本を貧しくする諸悪の根源であるかのように叩かれています。
しかし、少し冷静に考えてみてください。円安は本当に「悪」なのでしょうか?
本来、通貨安というのは国内産業が競争力を高め、外貨を稼ぎ、国を強くするために必要なプロセスであったはずです。今のこの状況を嘆くばかりの風潮には、現代の日本人が抱える「ある危ういマインド」が透けて見える気がしてなりません。

「安く買って消費したいだけ」という、生産性のない欲望

円安を敵視する人々の心理を深掘りすると、そこにあるのは「自分たちは何の生産的な努力もしないけれど、世界中の良いものは安く手に入れたい」という、少々厳しい言い方をすれば「卑しい根性」ではないでしょうか。

  • チーズが高い
  • オリーブオイルが高騰している
  • ワインが手に入らない

「高い、高い」と愚痴をこぼすだけで、自分たちの手を動かそうとしない。海外のブランド品や食材を、円高の恩恵で享受できていた「過去のボーナスタイム」にしがみついている。その姿は、かつての「ものづくり大国」のそれとは程遠いものです。

「無いなら、作って売る。そして儲ける」というマインドの欠如

チーズもオリーブオイルもワインも日本で作れないものではないし、ここに例を挙げたもの以外でも日本で作れるものはたくさんあります。むしろ日本の方が向いているものすらあります。
「高いなら、国内で作ればいい。国内で作って、それを世界に輸出して、高い外貨を稼げばいい。」
かつての日本人は、このハングリー精神を持っていました。資源がないなら知恵を出し、海外の技術を吸収して、より良いものを自分たちの手で生み出してきたはずです。しかし、今の日本はどうでしょう。ブランドを育て上げ、世界を相手に商売をしようという気概よりも、目先の価格に文句を付け「円安ガー」「物価高ガー」と愚痴を言うだけ。

本当の「貧しさ」とは何か

円安で輸入品が買えなくなってしまったことよりも、「自ら価値を生み出す」というマインドを失ってしまったことこそが日本が本当に貧しくなった証拠ではないでしょうか。
文句を言っている暇があるなら、足りないものを作り、技術を磨き、円安を利用して日本発のブランドを世界へ叩きつける。そんなタフな精神性を取り戻さない限り、おそらく日本に未来はないでしょう。
いつまでも傲慢な「お客様」気分で世界の商品をあれもこれも欲しがるのは、もう終わりにしませんか。

 

てなことを「オリーブオイル高けえなあ・・・」と思いながら考えた。

スギ花粉症という「人災」にガスマスクで抗議する

私、重度のスギ花粉症(+ヒノキ)である。毎年2~5月は暗黒期とも言うべき、地獄の苦しみを味わっている。

せっかくの花見も、春の宴も、釣りも、全く楽しむことができず。人生の損失たるや計り知れず。

そんな中、「花粉吸わなければいいんじゃね?」という発想から、防毒ガスマスクを通販で購入してみた。

↓こんなやつ。

https://jp.images-monotaro.com/Monotaro3/pi/full/mono06681622-220620-02.jpg

花粉症で大事なのはまずは花粉に触れないこと。なるほど、これをつけると嘘のように花粉症が改善され、生活にあらゆる快適さが戻ってくる。ただ、1つの嫌なことことを除いて。

そう、そこで待っていたのは花粉からの解放だけではなく、周囲からの冷ややかな視線だったのだ。

近所を歩けば二度見され、小学生たちは怯えて遠ざかる。下手すると夕方の不審者速報に乗るかもしれない。
何より辛いのは、一番の理解者であるはずの妻や息子たちから「恥ずかしいからやめて」「怪しすぎる」と、まるで私が悪いように詰られてしまうことです。


ここで私は叫びたい。
「なぜ、自分を守ろうとする者が批判されなければならないのか?」

もし、目の前で有害な化学物質が散布されていたら、防毒マスクを着けるのは当然の権利であり、賢明な判断だと言われるはずだ。今、日本の空に舞っている大量のスギ花粉は、私にとってはその「有害物質」と同義なのだ。

スギ花粉症は「天災」ではなく「人災」である。

そもそも、なぜ私たちはこれほどまでに花粉に苦しめられているのだろうか。答えは明白だ。戦後の拡大造林政策によって、政府がスギを植えまくり、そしてその後の手入れや伐採を怠ってきたからだ。

これは自然現象ではなく国家による「失政」が生んだ「人災」に他ならない。私たちは、政府が作った負の遺産によって、毎年健康を害され、経済的な損失を被っている「被害者」なのだ。

人災によって被害を受けている人間が自衛のためにマスクを着ける、その姿を「異様だ」と笑う社会のほうが、よほど歪んでいるのではないか。

防毒マスクは、無言の抗議(プロテスト)だ

私は提案したい。
もし、花粉症に苦しむすべての人が、春になれば一斉に防毒マスクを街中で着け始めたらどうなるだろうか。それは異様な光景かもしれない。
しかし、その「異様さ」こそが、長年放置されてきたこの問題の異常さを可視化するはずである。
「これほどまでに守らなければ、生きていけない環境なのだ」

「私たちは、政府の失政をこれ以上黙認しない」

防毒マスクを着用することは、単なる自衛手段だけではないのだ。
それは、現状を変えようとしない社会と政府に対する、最強のサイレント・プロテスト(抗議)になる。
家族に嫌がられようと、近所に怪しまれようと、私はこのマスクを外すつもりはない。なぜなら、このマスクの下にあるのは、理不尽な現状に対する憤りだからだ。


花粉症被害者の皆さん。
もう、我慢して鼻をすすり、目を赤くして耐えるだけの時代は終わりにしましょう。
私たちは被害者であり、声を上げる権利があります。
この「防毒マスク」が、春先の当たり前の風景になるまで、あるいは政府が本当の意味でこの人災を解決するまで、私は戦い続けます。このマスクは、私の健康と尊厳を守るための「正装」なのですから。


てなことを、痒い目をこすりながら考えた・・・。あーーーーかいーーー

NHKは不要なだけでなく、存在自体が社会にとって害悪なので解体すべし

NHKは解体したほうが良い。突然だが、昔からそう思っている。「NHKをぶっ壊~~す!!」の人が出てくるずっと以前からだ。

月々2000円だか3000円だかを取られるのが一番嫌なことだが(ちゃんと払ってるぞ)、その存在自体が我々の社会にとって害を為していると思うのだ。

何が害悪かというと

  1. 月2000円くらいとられる。結構高い。米2合くらいだぞ。
  2. 見ないから契約しないという選択ができない。必ず金を取られる。
  3. 法律で強制的にお金を取っているから(つまり税金と同じだから)、収入の心配をしなくていいので不要なコンテンツ(番組等)を作る。
  4. NHKが作らなくてよいコンテンツ(番組等)を作った結果、そのコンテンツを本当に作りたかった勢力の収益を減らす。または勢力そのものを駆逐する。

こう書くと、「いやいやNHKだって良い番組作ってるし、見てるよ。大河ドラマとか、すくすく子育てとかね」って言い出すバカが多いんだけれども、あのね、

それ、NHKがいなかったらもっと面白い番組たくさんできましたから。

残念。

全国民を法律で脅して有無を言わさず金を巻き上げておいて、余りあまる予算で大規模なコンテンツなんか作ろうものなら、無能が集まってもそれなりのものできるでしょ(できなきゃ困るでしょ)。金を集める時点で全くフェアじゃないんだから、そのコンテンツを本当に面白く作れる能力のある民間人が負ける確率が増えるのもあたりまえでしょ。

国営放送の必要性についてはまああってもよいかなあとは思う。災害の時の情報発信とかね。でもね、国営放送が大河ドラマ作ってどうすんねん。そのために月何千円も取ってどないすんねん。災害放送だけで月500円くらいでやってほしい。要らぬことに手を出さないでほしい。全く、くそつまらない大河ドラマの宣伝を見かけるたびに腹立たしく思う。食費を削ってこんなのにお金を払わされているかと思えば。U-NEXTに払ったほうが100万倍マシだよ。

一時期、「NHKをぶっ壊~~す!!」の人が出て来て「お、俺の考えてることをわかってくれる人が増えたか」と思ったんだけれども、その人は女子とか兵庫県とか他の事にも首を突っ込んじゃっていなくなっちゃいました。とても残念です。あのままワンイシューで行ってくれてたら世の中少しは変わったと思うんだけど。残念。

 

剣道と紐道 〜剣道人口増やすには〜

こんにちは。お久しぶりの投稿になりましたが、剣道精進続けています。はや2段を取得し、恐れ多くも今年3段を目指すこととなりました。

子供達と一緒に稽古をしておりまして、昇段審査も近くなってまいりますと毎週の稽古でお偉い先生から子供たちに、

「審査中に面紐胴紐がほどけたら審査落ちますから、しっかり結びなさい」

とのありがたいご説教があります。それも私が剣道を始めた5-6年前から毎年同じことを言われております。おそらく、この先生が師範になられてから10年くらい、その先代が何年、先々代の前が云々・・・で剣道場としては50年くらいは同じ話を続けておられるのでしょう。はたまたこの剣道場だけではなく、全国の剣道場では100年も前から同じ話がされていたかもしれません。

私も紐を結ぶのが苦手(特に面紐を後ろで結う時のギャンブル感がひどい)なので、小学生も大変だよなあと思っていたのですが、ふと、不思議に思ったことがありました。

”それほど難しいとわかっている面紐胴紐を、どうして簡単なものに改良しないのだろう。そうすれば「きちんと結べ」という指導する回数が減って、竹刀を振る時間が増えるのに”

剣の上達において着装を疎かにしてよいということでは毛頭ござりません、きちんと道具が使いこなせてこその剣道でありますが、その道具の使いやすさ、剣術上達への貢献のしやすさぐらいは研究発展させるのも剣道(ならびに武道全般)の役目のひとつではないのでしょうか。

剣道をやるのに紐を結ぶ修業がいるとなれば、それは紐道ではないか。

と思ったわけです。

私が思うには剣道において初心者はまずは暇さえあれば竹刀を振るべし、一にも二にも素振りと打ち込みであろうと思いますが、この”紐道”のせいで毎度毎度稽古の時間が削られるのは、まことに勿体ないことこの上ないとどうしても思ってしまうのです。

もし面紐がジッパーか何かでサっと固定できるものだったら、もし胴紐がサイズ調整可能なベルト式になっていれば、袴がスポんと履けるズロースみたいなものだったら、竹刀を振る時間が相当増えて子供たちの剣技は上達し、先生方が叱るストレスは減り、審査員も剣士の動きに集中できるのに勿体ないなあと思う次第であります。

てなことを飲み会の折に先生方に申し上げたりしてみますと、皆様方口を揃えて

「君、剣道を何だと思っているのだね。スポーツじゃないんだ、”道”なんだよ。先人の教えを守り抜くのが”道”なんだよ。立派な剣士であられた先人方達は一人の例外もなく紐結びをマスターしておられたよ。紐すら上手に結べない輩が、人様に偉そうにするものじゃ無いよ、謙虚になりなさい」

とおっしゃいます。まあ、どの先生にお伺いしてもまるで同じ回答です。

ならそれならば最初に紐結びを考えた人はどうやって発明したんだと聞き返したくなるのをぐっとこらえながら、「紐すら結べねえやつが偉そうな事言ってんじゃねえ」圧に負けて口をつぐむ次第でございます。

しかし私は思うのです。

確かにお偉い先人様方はキチンと紐を結ぶ技術を習得されておられましたけれども、それは他に手段が無かったからじゃございませんでしょうか?それしか無いからやっていた事を、有難い伝統作業にしてしまうのはいかがなものでしょうか?

お偉い先人様だって、パシッと一発でハマって動かない面があって、左右微調整可能な胴が開発されてればそっちを使っいたたでしょう。

紐の結び方は誠に立派な伝統技能だと思いますが、それは紐道で探求すべき事であって、剣の道でそれが前提となるのは少し勿体無いのでは無いでしょうか。

もし剣道に紐道がなければ「剣道めんどくさいから嫌だ」と言ってやめる小学生が減って、人口増加につながるに違いないでしょう。そのために我々は日々新しい技術の開発に努める義務があるのでは無いでしょうか、と偉そうに思った次第であります。

 

 

参観日で授業を見て、思ったこと

子供の小学校で参観日があったので行ってきた。

有難いことに自分の子供が在籍していないクラスでも見学自由だったので、好奇心旺盛な私は見知らぬ父兄に怪訝な目をされながらも足を棒にして全学年のあらゆる授業を覗いてきた。

そして思ったこと。

  • 小学校の授業は、勉学(学問)としては意味があまりない
  • 小学校の授業は、ほぼ時間の無駄遣いである
  • 小学校の授業は、頭の良い子供ほど、ストレスが溜まる

ま、その時思ったというよりは、私が小学校の時に薄々思っていたことの再確認であったのだけれども。

例として挙げてみると、3年生の算数では3×2×4をどの順番でやっても良いということを何時間もやっている。1年生では7+5をするのに一旦10を作るようなことを半年くらいやっている。国語ではどの学年でもわずか数ページの文章を1月くらいかけて少しずつ読んでいる。

頭の良い子だと5分で悟るようなことを、延々ダラダラ長時間かけて懇切丁寧にやっている。それでいて分かったからと授業を抜け出すわけにもいかず、おしゃべりすることもできない。勝手なことをしようものなら「きちんと先生の話を聞きなさい」「態度が悪い」と叱られる。これは頭の良い子供にとっては地獄である。

躾けが悪いから学級崩壊が起こるのではなく、授業がつまらないから起こるのである。

ここで、「それなら個別指導が良いのか」「誰が面倒みるのか」などと言われそうであるが、私が感じ、言いたいのは、

  • 授業という形式が悪いのではない
  • 小学校の授業はそもそも大したことをやっていなくて大半が時間の無駄なのだから、もっと別な面白いことをやればいいのに

である。

興味を持って読めば5分で理解できるような小説を味わうのに延々何時間もかけるくらいならば、みんなでドッジボールしてればいいし、子供向けの映画でも見た方がよっぽど有益ではないだろうか、ということである。

集団生活の体験は子供にとって非常に重要なことだと思う。なので「小学校をなくしてみんな家で育てろ」みたいな過激なトンチンカンなことを言うつもりはさらさらない。

小学校がなくなったら夫婦共働きなんて不可能だし。

そうではなくて、有限で短い人生の貴重な時間が、”小学校の授業”という無駄と苦痛でしかない時間に費やされるのを見ているといたたまれないのである。

 

ちなみに、私は旅行やレジャーのために小学校を休むのは全然アリというかむしろすべきだと思う派である。だってほぼ無駄な時間なんだもん。小学校の授業って。

(妻は休むの反対派なのでこんなことは怖くて言えないけれど。)

 

 

 

ガッツポーズ禁止!!!!!! 

分かってるわ!!!

でもな、俺、今度初めて試合すんねん!!!

勝ってもうたら、面決めてもうたら、無意識に出てまうわガッツポーズ!!!

取り消されてもええわ!!!!

そんだけ大事な試合やねん!!!!