参観日で授業を見て、思ったこと

子供の小学校で参観日があったので行ってきた。

有難いことに自分の子供が在籍していないクラスでも見学自由だったので、好奇心旺盛な私は見知らぬ父兄に怪訝な目をされながらも足を棒にして全学年のあらゆる授業を覗いてきた。

そして思ったこと。

  • 小学校の授業は、勉学(学問)としては意味があまりない
  • 小学校の授業は、ほぼ時間の無駄遣いである
  • 小学校の授業は、頭の良い子供ほど、ストレスが溜まる

ま、その時思ったというよりは、私が小学校の時に薄々思っていたことの再確認であったのだけれども。

例として挙げてみると、3年生の算数では3×2×4をどの順番でやっても良いということを何時間もやっている。1年生では7+5をするのに一旦10を作るようなことを半年くらいやっている。国語ではどの学年でもわずか数ページの文章を1月くらいかけて少しずつ読んでいる。

頭の良い子だと5分で悟るようなことを、延々ダラダラ長時間かけて懇切丁寧にやっている。それでいて分かったからと授業を抜け出すわけにもいかず、おしゃべりすることもできない。勝手なことをしようものなら「きちんと先生の話を聞きなさい」「態度が悪い」と叱られる。これは頭の良い子供にとっては地獄である。

躾けが悪いから学級崩壊が起こるのではなく、授業がつまらないから起こるのである。

ここで、「それなら個別指導が良いのか」「誰が面倒みるのか」などと言われそうであるが、私が感じ、言いたいのは、

  • 授業という形式が悪いのではない
  • 小学校の授業はそもそも大したことをやっていなくて大半が時間の無駄なのだから、もっと別な面白いことをやればいいのに

である。

興味を持って読めば5分で理解できるような小説を味わうのに延々何時間もかけるくらいならば、みんなでドッジボールしてればいいし、子供向けの映画でも見た方がよっぽど有益ではないだろうか、ということである。

集団生活の体験は子供にとって非常に重要なことだと思う。なので「小学校をなくしてみんな家で育てろ」みたいな過激なトンチンカンなことを言うつもりはさらさらない。

小学校がなくなったら夫婦共働きなんて不可能だし。

そうではなくて、有限で短い人生の貴重な時間が、”小学校の授業”という無駄と苦痛でしかない時間に費やされるのを見ているといたたまれないのである。

 

ちなみに、私は旅行やレジャーのために小学校を休むのは全然アリというかむしろすべきだと思う派である。だってほぼ無駄な時間なんだもん。小学校の授業って。

(妻は休むの反対派なのでこんなことは怖くて言えないけれど。)

 

 

 

人によって正しいものが違うのは辞めてほしいマジで混乱する

剣道入門者の切実な願いなんですが、稽古で立ち会う先生によって「正しい」とされるやり方が違うの、マジで困るんすよね。

些細な事なら良いのですが、例えば面を打ったときの腕の伸ばし方とかね。ある先生は「腕を張れ」、違う先生は「構えたままで降ろせ(要するに伸ばすな)」・・・。

うちの道場はなぜだかベテランに人気があって、7段の先生が5,6人いるんですよね。で、その先生毎に言うことが違う。

最初は「俺は器用だから先生によってやり方変えるなんて朝飯前だぜ」って思ってたんですけど、まあ、暫くするとシンドイですわね・・・。

それでも、先生同士で背反しなければシンドさもそれほどではないんでしょうけど、ある先生が欠席の時にもう一人の先生が「あの人の言うことは間違ってるから聞いちゃいけない」とか平気で言うんですよね。

で!! 驚いたことに言われた側の先生も同じ状況で同じことを言うう。。。

。。。。。。

これには閉口するのですが、よくよく冷静になって「なぜこういうこと(高段者の先生たちがお互いの指導を否定する)が起こるか」を私なりに冷静に考えてみたのですが、

つまりは、

勝負(試合)において勝ちとされる公平なルールが定まっていないこと

に尽きるんすよね・・・。

・・・・・・

日本剣道連盟における、「有効打突」の定義は下記です。

充実した気勢、適正な姿勢を持って、竹刀の打突部(弦の反対側の物打ちを中心とした刃部)で打突部位を刃筋正しく打突し、残心あるものをいいます。

*1

このうち、「竹刀の打突部(弦の反対側の物打ちを中心とした刃部)で打突部位を刃筋正しく打突し」は、まあいいでしょう。竹刀のどこが、どこに当たったか何てのは客観的に疑いようがないですからね。

問題なのは「充実した気勢」「適正な姿勢」「残心あるもの」の3つです。

これら、一歩間違えば「高邁な偉い先生が判断したので仕方がない」になりかねない基準じゃないですかね・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

どんなに打突部位に適正な位置が打突しても、高邁な先生に「お前の構えは充実していない」と言われれば引き下がるしかないわけでしょう。

そこは「充実とはなにか」という定義を客観的にきちんと示す義務が日本剣道連盟に出てくるのではないかと思ってしまいます。

「適正な姿勢」「残心」に関しては、おっしゃりたいことは分かっています。しかし、現場の審判がそれを判断できるかというと、微妙です。静止画で適正な姿勢を示したとして、それをどれくらい逸脱すればNGなのか、というのはいつまでも議論のもとになると思います。

ちなみに、欧州で流行した剣道に似た(怒らないで)フェンシングというスポーツでは、電気的な反応で触れたか触れていないかを判別します。公平さを排除した結果がそうなのでしょう。それについての賛否両論はあるでしょうが、「これなら文句ないよね?文句あるなら改善点出してみろや」と訴えかけてるように思える点で好感が持てます。

あのね日本剣道連盟さん、世の中「公平」でないと、何事も発展しないんですよ。剣道人口増やしたいなら、公平に納得できる、即ち、「先生によってやり方が180度違う」っていうの止めましょうよ、いやべつに「剣道人口が減っても困らない、俺たちは明治とともに滅ぶんだ」」ということなら、何も申し上げることはございません。

しかしね、若い人、これからの時代を背負う人はまず「公平」でなければ食いついてきません。そこんとこ、老婆心ながら、分かってくれたらなあと思う今日この頃

ていうお話でした。

 

 

*1:日本剣道連盟公式サイト

ホームレスのかっちゃん弄りについて。Abemaおまいうの巻。

今日は剣道とは離れた話でござる。たまには良いでござろう。

TikTokで流行した名古屋のホームレス虐め動画が各所で大炎上した。

(以下はTwitterでのまとめリンク)

インフルエンサー紹介BOT on Twitter: "【悲報】名古屋のホームレス女性を必要以上に追い回してオモチャにして遊ぶ動画が若者の間で流行中 閲覧数のためにTikTokerのターゲットにされてしまう https://t.co/C4A7IOhRvI" / Twitter

これらはTwitterはじめYahooニュースやYoutubeなど各所でこれでもかと大批判を浴びたので、ここでさらに説明する必要はなかろう。

お作法として私も言っておくが、立場の弱い者や能力の劣る者を論って笑いものにするのは趣味の悪いことであるし、ましてや暴行や傷害を加えることは立派な犯罪であって断固許されざるべきことである。

が・・・・・・・・・・

私がこの件に関して、それとはまったく違う視点で、興味深いなあというか、残念だなあというか、寂しいなあというか、それは違うんじゃないかと思ったことが1つあった。

それは今をときめくネット番組の雄、Abema TVで取り上げられた内容である。

【ホームレスいじめ】嫌がらせ動画なぜ拡散?承認欲求の麻薬とは - YouTube

(私はAbema本体とは契約していないし、する気もないので、YouTubeのダイジェスト版になります。あしからず)

Abemaはテレビ局資本が入っているとはいえ、サイバーエージェント主体だし、地上波では言えないようなことをやってくれるメディアとして期待はしていたんだけれども、本件に関してはまあ予想通りというか、司会の淳氏を先頭にオール「最近のSNSやばい」論調一辺倒であった。

具体的には、若手のホープと言われていた(私が勝手に思っていた)若新氏や、ゲストの山口真一氏(この人は知らんけど凄いんでしょ?)まで、

SNSですぐに広がる時代になった

・承認欲求を満たすためにSNSが安易に使われるようになった

SNSの使い方を教えるべき

という主張に終始しておられた。嘆かわしいことこの上ない。

 

私がまず思ったのは

(繰り返すが暴行傷害等犯罪行為は断固ダメですという前提で)

弱い者弄り(虐めではなく弄りと言わせていただく)で閲覧数を稼いでいたのはAbema TVそのものではないのか

ということだ。

例えば、最近人気絶頂のイェール大学助教の成田悠輔氏と、経済評論家(笑)の池戸何某氏の対決にしてもそうである。

【経済学者】成田悠輔&池戸万作が熱論!日本なぜ成長できない? - YouTube

この動画など、まさに

経済学以前の統計学で、高校で習うような相関と因果の違いについて理解していない素人と、ガチの専門家を対談させて弄ってコスパ良く再生回数を上げる

意図で作られた動画ではないか。

中身はどうあれ、やっていることは”かっちゃん弄り"と全く同じである。

・・・・・

これは端的に言うと「俺たちの利権、専売特許に食い込んでくる、真似する素人は断固許さん」という姿勢なのではないかと思わざるを得ない。

それって、Abemaがちょっと前まで敵視していた地上波と同じですよね。

「Abema、お前が言うか!」というのが”かっちゃん動画”についての感想である。

いろんな意見があって良いとは思うけど。

若新雄純さん、そこは

SNSが発展してすぐ広がる時代になった。。。ホームレスやるにもリテラシーがいる時代になったんですよ。そこはタダで飯がもらえると思わずに、ちゃんと良いリアクション磨いて、おいしいものを食べましょうよ。」

とか言ってほしかったです。割と本気で。SNSを押さえつける方向ではなくてね。

その方が、WinWinで明るい未来が開けると思う。知らんけど。

 

 

 

 

上座下座と面倒臭い

前回の記事(正座は武士にあるまじき行為ではないのか)で「1つだけ」許し難いと述べさせていただいた剣道における(近年捻じ曲げられた)シキタリでしたが、申し訳ござりませぬ、もう1つございました。

そう、タイトルの通り、上座下座の話でござりまする。

今回の話は生々しい話でござりまして、まさに今日の稽古で起こったのでござりまするが、乱取り稽古(剣道でその言葉を使うかは不明)、要するに定例メニューをこなした後の放課後での自由取り組みでの出来事でござりまする。

定例メニューをこなして水分を取りまして、面をつけ直していざ「やる気があるところを見せよう」と、既に面をつけ直して起立しておられる先輩に稽古を申し込んだところ、「いや、我々は後などで」とゴニョゴニョなんだか奥歯にものが挟まった物言いをされる。どうやら道場主である教士七段の先生の順番を待っている風体と。その七段の先生は別の先輩と取組中。お、それならばともう一人の先輩にお声がけしたところ、同じお答え。

・・・・周囲はガラ空き。防具をつけて呆然と立っている剣士が複数・・・。

ちょっと待てと。時間が吐いて捨てて余りあるような餓鬼共ならまだしもだけれども、我ら社会人、現役バリバリの日本を背負って立つ納税者である。仕事の合間に貴重な時間を割いて教えを乞うて居るのではないか。それが、道場主の一番偉い先生を差し置いて自由稽古もできないとは。

さらに驚いたのはその後である。道場主の先生に一番に掛かっていた先輩が空いたので、すぐさまその先輩に稽古をお願いしたところ、「コッチはダメ!アッチデ!」と叱られたのだ。

そう、「コッチ」というのが「上座」だったのである。

「上座」「下座」というのは、なんとなく「入口に近い方が下だな」という知識はあったものの、神棚のある道場ならいざ知らず、納税者の皆様から有難く借りている公立小学校の体育館でマサカそんなものがあるとはつゆ知らなかった私には衝撃であった。

運悪く(かどうかは知らないが)、その時道場主教士七段の先生は体育館の中央で稽古をしておられた。。。待機している剣士多数。。。先生の右側(奥側)はガラ空き・・・。先生の左側(入り口側)は子供やギャラリーで混雑・・・。

思うに、道場を統括する道場主であるからには、レンタルしたスペースが最大限活用されるよう気を配る義務があるのではないだろうか。自身の上座に弟子が出られない風習を奨励するのであれば、自身が最上座に居座る義務がそこには生じるはずである。そのことを怠ったのであれば、それは道場主の過失である、と思うがいかがなものか。

もうさ、空いてるスペースと空いてる時間は有効活用しようや。な。税金で賄ってる小学校の体育館なんだからさ。

・・・と、現役納税者の一人として切に願わざるを得ない今日この頃でござった。

正座は武士にあるまじき行為ではないのか

「剣道は武士道、武士の精神を現代に伝えるものである」旨のことを、事あるごとにご老人の先生方から教えられる。人の前を横切ると叩き切られるので後ろを通る、すぐに刀が持てるように右足から立ち上がる、竹刀(刀)は武士の魂であるから跨いではいけない、等々。それらはおおむね趣深い、尊重すべきことのように思う。

しかしながら1つだけ、「座るときは必ず正座」というのは、いささかいかがなものかと思う。「武士はいかなる時も戦場にいるつもりでいなければならない」のならば、正座は戦闘態勢には大変不向きである。

まず、痺れる。特に話の長いご老人先生のありがたいお話を清聴した後など、足の感覚は消え果てて、戦はおろか立ち上がることすら暫くはできぬ。正座をしている時に敵が襲い掛かってきたら一体どうするのかという気がしてならない。

「なぜ剣道では戦に不向きな正座をさせるのか」の疑問を調べるために、私はアマゾンの奥地ではなくGoogleを探索した。

・・・・・・・

日本文化研究のお偉い先生方の書物*1*2を拝見する限り、正座が正式な礼儀として定着したのは明治時代のようである。(むむむ、またも明治か)

テレビや映画の時代劇を見ても、戦国武将は主君に謁見する場合でも胡坐であるし、中国の皇帝に謁見する武人は立膝(跪座)である。まさに、いつ何時不埒者に襲い掛かられてもすぐさま反応でき、それでいて失礼とならない姿勢である。

それが、いつの間にやら(明治である)立ち上がるのに苦労し、立ち上がっても足がしびれて動けない正座へと変わってしまった。大変に嘆かわしいことである。

すぐには立ち上がれない正座をするということは、全くもって戦う気がないことの表明である。これを武士道の堕落と言わずして何と言えようか。土方歳三ならば士道不覚悟で切腹を申し付けたことであろう。ああ、なんとも嘆かわしい。

・・・・・・・

私の今までの人生の感覚では「正座は罰としてさせられるもの」であった。

もう40歳も過ぎて、まさかこの先好き好んで正座などしないであろうと思っていたのだが、残念、何を思ったか一念発起で剣道に入門してしまったからには正座は避けては通れない。なんとか「正座は武士にあるまじき行為」という風潮になってくれないかと心密かに願うばかりである。マスクだって悪から善へコロっと変わった民族性なんだから、正座もちょっとしたことで悪になったりしないかなあ・・・

入門者を遠ざけるモノたち

剣道は初心者に厳しいスポーツ(?)(伝統芸能?)だなと思う。

私の場合40過ぎまで全くその世界を知らなかったので、かなり苦戦した(ている)。

どんな道であろうが初心者が苦戦するのは当たり前のことだとは思っていはいたが、私が特に驚き戸惑ったのは、その苦戦の原因のほとんどが”道具”に関することだったことだ。

以下、私の前に敢然と立ちはだかった道具たちを紹介する。

先鋒:紐

靴紐くらいしか結んだことがなかった私にとって、まずはこいつで躓いた。何度結んでも「それは縦結びじゃないか。死装束で使うものだぞ!」「大人のくせにそんなことも知らんのか」などと色んな先生にお𠮟りをいただく。

こちとら葬式なんて小学生の婆ちゃんの時以来だし、あいにく両親は健在なので、死装束の紐など結んだこともない。

結び方を訊くと「こうやってな、こうやってこうだ(ドヤ)」と教えられるのだが、相手と自分の向きが反対なせいか、何度やっても縦結びになってしまう。稽古が始まるのでゆっくり詳しく訊くこともできず、何となく結んでいるうちに外れてしまって叱られる。

家に帰ってYouTubeで学ぼうにも、紺色の道着に紺色の紐で「こうやるんです(ドヤ)」という動画ばかりで一向に理解が進まない。

これまた道着袴防具のありとあらゆるところが紐なので、結び方の拙さがジャブのように効いてくる・・・。

ボタンとかベルトにはしてもらえないものなのだろうか・・・。

次鋒:手ぬぐい

最初、手ぬぐいとタオルの違いが分からなかったので薄そうなタオルを持って稽古に行ったら呆れられてしまった。家に手ぬぐいがあるのが普通なんだろうか・・・。

それはそれとして、この手ぬぐいを上手く装着するのに苦労した。何度やっても面を着ける時に解けてしまう。たまたま上手にできても「後ろがピロピロしていて見苦しい」と叱られる。焦って何度も装着し直しているうちに「みんな待ってるんだから早くしろ」と怒鳴られる。

そもそも手ぬぐいを頭に巻くのは何のためなのか。髪の毛をまとめて、面との間にクッションを入れる目的ならば、手ぬぐいでなくてギャザーキャップのようなものが最適ではないだろうか。

https://makeshop-multi-images.akamaized.net/ryuna01/itemimages/005007000001.jpg←ギャザーキャップ

そりゃあ、昔はどの家にも手ぬぐいがあって、手軽だったから手ぬぐいを使っていたのだろうと想像するが、私の場合、家に手ぬぐいが無かったのでわざわざ買ってきて用意して、そしてそれを苦労して頭に巻くという有様。それだったら最初からギャザーキャップを買えばという気になってしまう、この理不尽さというか滑稽さにいたたまれなくなりました。

中堅:胴

先鋒の紐の兄貴分だが、こちらは人によって結び方が違うというレベチの難敵である。

先生方は丁寧に教えて下さるのだが、いかんせんアゴが下を向ける最大角度に限界があるため、どうしてもよく見えず、手探りが増えて理解に時間がかかる。

どうにかこうにか習得しても、違う先生に「そうじゃなくてこう!」と叱られる。人によって違うので。

それより何より一番困るのが、結んだ後で長さが変えられないこと。やっとの思いで結べたと思ったら胴が下がり過ぎていて、調節するのにまた解き直して・・・・あ”あ”あ”あ”あああああksdふあskdfdsふじこ。

リュックサックのバックルみたいに長さ調節簡単な仕組み考えようよ・・・。

副将:袴

頑張って装着しても、裾が上過ぎると格好が悪いといって叱られる。なるべく下にと思って装着したら、稽古の時にすっ転んで腰を強打して泣いた。(本当に痛かった)

小学生などの子供はずいぶん上の方で(足首丸々出して)装着している。危ないからだそうだ。大人だって上でいいじゃないか。一回転んで以来、踏み込むのが怖くて仕方がない。

そもそも、転倒の危険がある勝負服って、勝負に向いてなくないか?

ラスボス:面

いよいよ真打登場、面紐ぐちゃぐちゃで自力回復不能になるのは日常茶めし事、狭い視界で暗中模索に蝶々無びをやらされる苦難は本当に堪えた。

しかし防具店で左右に面紐ガイド通し穴のついている面を見つけたとき、「道具屋、やればできるじゃないか」と感激して速攻注文したものである。

http://www6.big.or.jp/~budogu/new/kendo/syo2l.jpg←こういう横にガイドのあるやつ

面紐ガイド通し穴さえあれば、その穴から紐を完全に外してしまわないかぎり面紐がぐちゃぐちゃになることはない。尚且つ、先生に怒られない位置で結ぶことができる。これは洋服のボタンに匹敵する”発明”だと思う。

面紐ガイド通し穴を発明できたのならあと一歩、コードストッパーのような、紐をギュッと締められる、強度のある仕組みがあれば尚良しである。

https://m.media-amazon.com/images/I/715gdffQOrL._AC_SX466_.jpg

これがあれば、「面付けまだ終わらんのか」とのたまわなければならない先生がたのストレスも少しは減らせるのではないか。

あともう一つ、耳穴は開けた方が良いのではないかと思う。面を着けてしまうと、先生のおっしゃることが聞き取りにくくなる。勝負の世界でも、相手の音、空気の音は重要な監視すべき要素となる。耳は打たない前提であるので、耳穴くらい開けても大事にはならないのではないか。

まとめ

ことほどさように、剣道という武道は剣を持って戦う以前に入門者の障壁となるポイントが多い。ただ、それらが作法や礼儀に関することならば、教わるべき「伝統」でもあるので致し方のないことだろう。

しかし、残念ながらそれらの多くはモノ、道具なのである。剣道人口の減少が業界で問題視される中*1、入門の障害はできるだけ除去するべきで、せっかく剣道の素質もやる気もある人が道具の扱いが難しいから入門を断念したとなると、大変に勿体ないことではないだろうか。

「いやいや、道具の扱いも含めて後世に伝えるべき伝統なのだよ」とおっしゃられることは百も想定済みである。そうおっしゃる方々は、袴にプラスチックのヘラが付けられたときに文句を言ったのだろうか。鉄の甲冑が革の胴だけになったときに「軟弱だ」と怒ったのだろうか。

武士が誕生した平安以来、武士の道、剣の道において武具防具はイノベーションを繰り返して発展してきたのだ。より使いやすく、より実用的に。

それを、たかだかある一時代(明治)の様式に頑なにこだわるというのは、伝統を守ることではなく進歩を止めることであろうと考える。剣の道(剣道)で伝えるべき伝統は、たかだか僅か一時代の防具の様式などという小さなものではなかろう。

道具は常に改良されるべきであるし、進歩を止めればだんだんと人が寄り付かなくなるのは真理であろうと思う。たかだか僅か一時代の防具の様式を守るために入門者を遠ざけて人口を減らしているとするならば、それは愚かなことではないだろうか。

番外編:マスク(コロナ対策)

本当に勘弁してほしい、ウイルスじゃなくて酸欠で死ぬ。大真面目に危険である。殺す気か(武道だけに)・・・。

余談だが、あれほどまでに明治時代の武具様式にこだわる剣道連盟のご老人かたがたが、マスクだけは推奨するのは少し整合性に反するのではないかと思ったりする。

ほんの数年前まで、「目上の人の前でマスクするのは失礼」とか言ってなかった???